こんにちは、Compassワタナベです。
教員養成大学の2年生。カレンダーの上では、教育実習はまだ1年以上も先の話です。頭ではそう分かっているのに、最近ふとした瞬間に、まるで分厚い雲のように、漠然とした不安が心を覆い尽くすことがあります。
「教育実習、自分にできるだろうか……」
サークルの友人や、講義で隣に座る仲間たちも、同じようなことを口にし始めました。まだ誰も見たことのない未来に対する、この正体不明の不安。一体、私たちは何に怯えているのでしょうか。
先輩たちが語る「リアル」が、不安に輪郭を与える
先日、所属しているサークルで、教育実習を終えたばかりの4年生の先輩たちと話す機会がありました。
「本当にやりがいがあったよ。最終日に子どもたちがくれた手紙は、一生の宝物」
目を輝かせながらそう語る先輩の話を聞いていると、自分の未来にも一筋の光が差すような、温かい気持ちになります。ああ、やっぱり先生って素晴らしい仕事なのかもしれない、と。
しかし、その希望は、別の先輩が漏らした一言で、もろくも崩れ去りました。
「正直、二度とやりたくない。指導教員の先生が本当に厳しくて、毎晩、日誌を書きながら泣いてたよ」
疲れ切った顔でそう語る先輩の言葉は、ずしりと重く、私の胸に突き刺さりました。光と闇。あまりにも両極端な体験談は、これまで漠然としていた私の不安に、生々しい輪郭を与えてしまったのです。
私が本当に「怖い」と思っていることの正体
先輩たちの話を聞いてから、私は自分の心の中にある不安を、改めて深掘りしてみることにしました。「授業がうまくできるだろうか」「生徒たちと良い関係を築けるだろうか」……もちろん、そうした技術的な不安はあります。
しかし、どうやら私の恐怖の根源は、そこにはないようでした。時間をかけて自分と向き合った末にたどり着いたのは、もっと根源的な問いでした。
私が本当に恐れているのは、「『先生になりたい』と心から思えないまま、教壇に立つこと」なのではないか、と。
恥ずかしながら、私にはまだ、民間企業への就職という選択肢も捨てきれずにいます。そんな中途半端な気持ちで、未来ある子どもたちの前に立つ資格が、自分にあるのだろうか。この問いこそが、他のどんな不安よりも、私を最も苦しめていることに気づいてしまったのです。
「偽物」の先生になることへの罪悪感
もし、心の底から「先生になりたい」と願っている他の誰かの席を、この中途半端な私が奪ってしまっているとしたら? そう考えると、耐え難い罪悪感に苛まれます。
子どもたちは、きっと驚くほど敏感です。目の前に立つ大人が、「本物」の情熱を持った先生なのか、それともただ「先生」という役割を演じているだけの「偽物」なのか、すぐに見抜いてしまうに違いありません。
生徒たちのまっすぐな視線に、私は耐えられるだろうか。「先生」という役割を演じているだけの空っぽな自分。そんな風に思われるのが、何よりも怖い。これは、一種のインポスター症候群(自分の実力を内面的に肯定できず、自分を詐欺師のように感じてしまう状態)なのかもしれません。
不安は、自分の心の「羅針盤」
正直に言うと、まだ私には明確な答えは出せていません。このまま教員の道を目指すべきか、それとも、今からでも別の道を探すべきか。私は今、人生の大きな岐路に立ち、迷いの真っ只中にいます。
でも、一つだけ、心に決めたことがあります。それは、この「教育実習への不安」から、決して目をそらさないということです。
この正体不明の不安は、私が自分の将来と真剣に向き合おうとしている、何よりの証拠なのだと思います。そして、自分が本当に何をしたいのか、どんな人間になりたいのかを見つけ出すための、大切な「羅針盤」なのではないでしょうか。
だから私は、教育実習の目標を、少しだけ変えてみることにしました。「完璧な先生になること」を目指すのではなく、「自分が本当にこの道に進みたいのかを、心で感じ、確かめること」を目標にしたいのです。
失敗したっていい。悩んだっていい。その試行錯誤のプロセスこそが、今の私にとって一番の学びになるはずだから。
もし、これを読んでいるあなたも、まだ見ぬ未来に同じような不安を抱えているのなら。その不安を、無理に消し去ろうとしなくてもいいのかもしれません。一緒に悩み、考え、自分だけの航路を見つけていきませんか。
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