迷いながら、悩みながら、それでも少しずつ前へ。

憧れの職業が揺らいだ日——教職員の不祥事が続く現実と、それでも教師になりたい理由

憧れの職業が揺らいだ日——教職員の不祥事が続く現実と、それでも教師になりたい理由

こんにちは、Compassワタナベです。

スマートフォンの通知で目が覚めた、ある朝のことでした。SNSのタイムラインに流れてきたニュースの見出しに、私は思わずため息をつきました。「また、教員の不祥事か」。

教員養成大学に通う私にとって、このニュースは決して他人事ではありません。それは、私が目指す将来の職場の話であり、いつか「先生」と呼ばれるかもしれない自分自身の未来に、重く影を落とす出来事だからです。読者の皆さんの中にも、かつて先生に裏切られたと感じた経験を持つ方はいらっしゃるでしょうか。今日は、そんな私の複雑な胸の内を、正直にお話ししたいと思います。

きっかけは、あまりにも重い数字の現実

私が特に衝撃を受けたのは、2024年度だけで、わいせつ行為やセクハラを理由に懲戒処分などを受けた公立学校の教職員が281人にのぼるという報道でした。私が大学で教育の理想を学んでいる一方で、教育現場では、子どもたちの信頼を根底から覆すような事件が後を絶たない。この現実は、私の心をひどくざわつかせました。

「自分が目指している場所は、本当に大丈夫なのだろうか」。そんな不安が、まるで濃い霧のように目の前を覆っていく感覚でした。

不祥事の背景と、わずかな光

なぜ、このような不祥事が繰り返されるのでしょうか。少し調べてみると、個人の資質だけの問題ではない、構造的な課題が浮かび上がってきました。長時間労働や過重な業務による極度のストレス、外部の目が届きにくい閉鎖的な職場環境、そして、時代にそぐわないコンプライアンス意識の欠如。これらが複雑に絡み合い、一部の教員を過ちへと走らせているのかもしれません。

しかし、同時に一つのデータが私の目に留まりました。不祥事を起こした281人という数字は、日本の公立教員約66万人の中の、わずか0.042%だという事実です。もちろん、被害に遭った子どもたちにとっては、割合の問題などではありません。一つの許されない行為であることに変わりはありません。ただ、この数字は、大多数の先生方が日々誠実に子どもたちと向き合っていることの裏返しでもあります。

そのとき、私の心に新たな問いが生まれました。「不祥事を起こしてしまう教員と、そうでない教員とを分けるものは、一体何なのだろうか」と。

「自分は大丈夫か」という、消えない問い

恥ずかしながら、告白します。不祥事のニュースに触れるたび、私の心には「自分は将来、あのような過ちを犯さないと、本当に言い切れるのだろうか」という、薄ら寒い感覚が忍び寄るのです。

教員は「聖職者」であるべきという社会的な期待は、今も根強くあります。しかし、教員も一人の人間です。疲弊し、孤立し、誰にも相談できない状況に追い込まれたとき、人は誰でも判断を誤る可能性があります。だからこそ、私は今のうちから、自分自身の倫理観や感情のコントロールについて、真剣に向き合い続けなければならないと感じています。

それでも、私が教師を目指し続ける理由

不安や葛藤を抱えながらも、私が教師を目指し続けるのは、ある記憶があるからです。中学生のとき、私が深く落ち込んでいた時期に、一人の先生が放課後に声をかけてくれました。特別なことは何もしてくれませんでした。ただ、隣に座って、私の話を最後まで聞いてくれただけです。しかし、その30分間が、私の人生を変えたと言っても過言ではありません。

あの先生のような存在に、私もなりたい。その一心が、今も私の背中を押し続けています。不祥事のニュースに心が揺れるたびに、私はあの放課後の教室を思い出します。そして、「だからこそ、自分は誠実な教員でなければならない」という、静かな決意が胸の中に灯るのです。

揺れながら、それでも前へ

教職員の不祥事というテーマは、重く、複雑で、簡単に答えの出るものではありません。しかし、目を背けることもできません。なぜなら、それは私自身が踏み込もうとしている世界の話だからです。不安を抱えながらも、問い続けること。葛藤しながらも、理想を手放さないこと。そのプロセスこそが、誠実な教員への道なのかもしれないと、今の私は思っています。

皆さんは、教職員の不祥事のニュースに接したとき、どんなことを感じますか?ぜひ、コメント欄で聞かせてください。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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